歴史のミステリー
2013年 02月 05日
平家の落ち武者とか言うのもその類だ。
全てが虚言ではなく明確な証拠もある場合もあるだろうが。
そこで、先祖にあたると彼らが主張するのが滅亡した名門や、子孫が分散したりしている家系だ。
つまり、主張している人物の言い分が正しいかどうか確認できないのが多い。
家系図がある?、戦国時代に家系も寸断しているのに正当性が証明できるのかどうか。
しかも、上手に先祖からの血統を作ってくれる「系図屋」というのもあって、現在もその商売をしている人達がいる。
あるいは他人の系図を買う「系図買い」という商売もあった。
現在の戸籍買いと同じ闇の商売、といっても、昔はおおっぴらにやっていたらしい。
徳川家康は先祖が源氏であると主張した時期と平氏であると主張した時期がある。
他の武将だったかな、まあ、そういういい加減な主張が罷り通った時代があったという事だ。
平氏も源氏も権力を失ってからはそういうのは関心を呼ばなくなったようだ。
それで、こんな記事があった。
《歌舞伎俳優の十二代目市川団十郎さんが3日死去した。市川家ゆかりの市川三郷町は名誉町民の称号を贈っており、久保真一町長は「町を挙げてご冥福をお祈りしたい」と悼んだ。町役場には半旗が掲げられた。
初代市川団十郎の先祖が武田家の家臣で、現在「歌舞伎文化公園」(同町上野)がある付近に土地を与えられたとされる※下記に異説紹介by海つばめ》=毎日新聞 13年02月05日 地方版=。
東京の歌舞伎役者の起源は浅草界隈だと思っていたが、一代目が山梨出身でしかも滅亡した武田家の遺臣だったとは。
戦に強いと言われた武田軍団が各地の大名に仕官していったのは判るが、それが歌舞伎役者に・・・。
※異説
神社の鎮座地は一条氏塁跡である。
三郷町教育委員会によると「戦国時代に甲斐を治めた武田信玄は、源氏武田家始祖武田信義の嫡男で、源頼朝に謀殺されたとされる一条忠頼にはじまる一条家の名跡が絶えているのを惜しみ、異母弟である右衛門太夫信竜に家跡を継がせた。
その後、信竜はこの地に塁・館を設け甲府盆地南西部を治めたとされる。
天正十年(1582)武田家滅亡の折、一条館は富士川に沿って来襲した徳川軍により攻め落とされ、当主信竜も討死したという。
なお『甲斐国志』は、(信竜はこれ以前に病死していた)とし、(討死したのはその息子の上野介信就である)としている。」との事である。この当たり一帯を上野郷という※
蹴裂神社について。
この神社の所在地は三郷町歌舞伎文化公園のすぐ北側つまり、市川家が与えられたとする土地にあるようだ。
正田家や小和田家も名門らしいのに曾祖父あたりまで遡ると先祖の氏名が不詳になってしまうらしい。
歴史のミステリーというやつか?。
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