あと3日 あと3日
2013年 06月 28日
韓国内の新聞には「日韓より中韓だ」という論調もあるらしい。
ある国との関係をこじらせたから修復するのではなく、別の国との関係を大きく深めるという発想のようだ。
《事大党(じだいとう) 李氏朝鮮末期の保守的な党派に対する、開化派からの呼称。別称守旧派。1882年の壬午事変から日清戦争に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。
1882年壬午事変で大院君を退けた閔氏一族を中心に形成され、日本と結んで清からの自主独立と政治の革新を主張する独立党(開化派)に対し、伝統を守って宗主国の清への臣属を主張し政権の維持をはかった。1884年の甲申政変ののちさらに清に接近し、優勢であったが、日清戦争に清が敗北し、乙未事変が起こるとともに衰え、多くは親露派に変わった
開化派=独立党 明治維新などの影響を受けて1870年代に朝鮮宮廷内の青年貴族官僚(両班)を中心に形成され、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした。1882年の壬午事変以後、清と結ぶ保守的な事大党と対立。
1884年、金玉均・朴泳孝らが中心となり、福沢諭吉邸を拠点に、慶應義塾(現・慶應義塾大学)の関係者が全面協力し、密かに武器弾薬を送って彼らに決起を促し、更に福沢の紹介で井上馨外務卿を通じて横浜正金銀行から朝鮮政府に資金を融通するなど革命工作を進める。50名程の朝鮮人留学生が留学し、後藤象二郎や花房義質、竹添進一郎、副島種臣などの薫陶を受け、陸軍からは三浦梧楼や岡本柳之助が暗躍した。日本の援助で甲申政変を起こし政権を握ったが、清の介入で3日で失敗し金玉均・朴泳孝らは日本に亡命した。
1894年の日清戦争時に親日政権に参加し再び政権を握ったが、1895年事大党だった親露派に追われた》=何でも判るWikipediaより=。
このあたりの歴史に韓国政府は触れているのか。
外国に頼るというのは江戸末期の薩長土肥にも見られた動きだから、寄らば大樹の陰は処世術の一つだろう。
それはいいのだが、寄るべき大樹がその役目を果たしてくれるのかどうか。
そこそこのブログやマスコミですら中国経済の落ち込みに警鐘を鳴らしている。
7月には中国崩壊と予測する記事もある。
それが正しい分析なら、あと3日だ!!。
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